宇奈月ブログ

人生の旅人

重要な転機:吉田茂政権と日本の政治厚生局長

1953年2月28日 吉田茂首相は、
社会党西村栄一議員に対して
その質問の答えを「バカヤロー」
と発言して、それをマイクが
ひろって、3月の解散の糸口に
なりました。

吉田茂アメリカ合衆国との
安全保障条約を巡る問題で
政権内外での軋轢が続いて
いました。

吉田内閣は1953年に発足し、
新たな安保条約に基づく
日米関係の推進を進めて
いましたが、これに
反発する声が広がりつつ
ありました。



社会党共産党、そして
自民党内の一部の議員らが
反対し、吉田内閣の解散を
求める動きが拡大して
いました。

1954年1月、馬鹿野郎事件が
勃発しました。
吉田内閣の一員である
東京都知事の馬場良と、
厚生局長のが労働問題や
賄賂疑惑でスキャンダルに
揺れ、辞任せざるを得な
くなりました。

この事件は政府の信頼を
大きく傷つけ、吉田内閣に
対する批判が一段と
高まりました。

野党は解散総選挙を要求し、
一部の自民党内でも吉田の
指導に対する不満が表面化
していました。
吉田茂はこうした状況を受け、
1954年1月31日に内閣を総辞職し、
衆議院を解散させました。

吉田茂は解散を通じて新たな
選挙を行い、自身の指導力
試す意向を示しました。

解散総選挙は激しい戦い
となりましたが、
結果として吉田率いる
自由民主党が勝利し、
吉田は再び首相の座に
返り咲くこととなりました。
馬鹿野郎解散は吉田茂政権に
おける重要な転機となり、
その後の日本の政治にも
大きな影響を与えました。