宇奈月ブログ

人生の旅人

3月を弥生と呼ばれる謂(いわれ)と、3月に起こった大きな事件

3月は暦で弥生と言いますね。
ではなぜ弥生と3月に付いたのでしょうか。

すでに2月の終わりごろからは、万木の樹木
の芽のふくらみがみえ、梅のように優雅な
花と香りを振りまいていますが、

さらに3月に入るとその勢いが強くなり、
芽吹き遅れていた花々も一斉に花が咲く
準備に入ります。。
「そんな花々の動きの状態を現したこと」
と言えるでしょう。

広辞苑で弥生を「弥」と「生」に分解すると

「弥」は ますます、いよいよ
を現していて
「生」は 生きること
つまり

ますます生きることーーー>漸次成長する
の意味になるのだとおもわれます。

3月に入り4日の暦で啓蟄が始まり、東大寺
お水取りの12日を過ぎるころから本格的な春が
やって来ると関西では思われていて

今年も、その通りになったことは、あながち
噂だけで無く、天体の条理にやんわりと
沿っているようで、チョッピリと真理の中に
もぐってみると、正確さに軽い驚きを感じながら
私は納得できるのです。

さて今日は4日、
歴史を見ると大きな事件が散見しますが
大きな事件を覗いてみましよう。


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sengakuji.or.jp


赤穂浪士47人討ち入り」事件の発端の
なった事件が起こったのが今日3月4日であります。

播磨赤穂藩主・朝野内匠頭長矩
(あさの・たくみのかみながのり)が
吉良上野介(きら・こうずけのすけ)を江戸城
松の廊下で、刃傷沙汰で傷を負わしたため
抜刀し刃傷に及んだ罪で切腹となった事件
(抜刀は、重大事件でした。)
であります。

吉良上野介の理由(いわれ)のない
難癖から起こったい典型的な
いじめの事件です。

賂(まいない)の少なさを立腹した上野介が、
ことあるごとに、難癖をつけて内匠頭を窮地に
落として、礼式指導の侮辱等あくどさから、
内匠頭は抜刃して刃傷に及んだと
言われています。

筆頭家老の大石倉之助(本名:大石良雄)は
その主君の無念を晴らすため、敵(かたき)
討ちを誓います。
「昼行燈(ひるあんどん)」と言われる
数々の行動で上野家や一般民衆を欺いて、
「大石はあきらめた」そう信じ込ませて、
1702年12月14日
吉良家の討ち入りを首尾よく敢行して
隠れていた炭小屋の中の上野上野介を
とらえました。

この仇討は、その後文楽や歌舞伎の演目等、
現在でもその忠義の誉れをしのぶ人々たちに
愛されて

忠臣蔵の名称で親しまれています。





ありがとうございました。


完。