2011年3月11日。東日本大震災。
わたし目には飛び込んできたのは、
各報道機関より飛び込んできた
歴史残る大惨事でありました
その映像を見るたき、体が冷たくなったのが、
仕事の作業日誌に走り書きで残っていました。
そこには「東北で地震か、津波も、規模大きい。
氷見の状態は、見るのに寒い」と書いていました。
富山の氷見には当時、私の親族の母親が
一人生活していました。
10年の経過で、映像を見て震災が義母にも
降りかかるかもしれない
と思う瞬間から災害映像をみた瞬間から
「体から血の気が引いている自分」
になっていたのでしょう。
小さけど誰にも向けられない怒りの気持ちが、
日記の記述にありました。
*****
その日は、私にとっても、重大な一日でした。
2月の終わりに家内が大阪市の病院に
入院していました。
初期肺がんの疑いで入院したのです。
少しの検査の上入院する様に助言があり、
その日に入院しました。
私は、ある程度は覚悟はしていましたが、
これも運であろうと観念の
気持ちで過ごしました。
外食はやめその日の三食は気分を
紛らわすため、自分のためにつくり続けました。
のちに、料理に目覚めることは、
その当時は知りませんでした。
そしてーーー3月11日。
病院から呼び出しがありました。
症状とこれからの治療を説明するからと
午後3時半に担当医までに来るようにと
呼び出しがありました。
何があってもいいつもりで、と呼吸を
整えて電車に乗りました。
始発駅~目的駅まで 5駅の長く感じたこと。
まるで新幹線で東京大阪間を乗るに似ている様な
早く知りたい焦りがのどから出そうな
気持だったようだったと思います。
そして、最寄り駅から歩いて7分で病院について
病棟がある7階のたどり行きました。
3日ぶりに逢う家内は、別に変わりったとこは無く、
変わりませんでした。
本人が私以上に、落ちついていました。
そして、その時間が来ました。
私は、このじかんをはっきりと覚えています。
7階の病室に入るなり、ゆっくりと10秒r程度揺れました。
看護師の鋭い声が飛びました
「動かないで」 という声でした。
私たち夫婦は、一瞬絶句、 この建物も揺れるのか。
大阪と現地まで、750キロ以上あるのに、---。
間も無く、主任さんが、来られた。
話を聞くと、
胸部の腫瘍とゆうらしく、検査から見たのでは
悪性ではなく比較的手術しやすい腫瘍で
ありました。
それを聴いて、ほとんどの疲れが消えました。
手術は明日からで、
4日ほどで退院できまとの話でした。
担当医にお礼を言って、
「よかった」
家内の一言でした。
電車で帰宅と中、椅子に座ってふっと
したとたん
こみ上げ的ました。
おやすみなさい。
完。